終わりの日

誰も真面目に調べない終末論、聖書預言の考察

魂と携挙(ラプチャー)の話

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キリスト教会の教えには携挙(ラプチャー)という聖書から導き出された概念があり、それは地上の悪に神の裁きが下る最後の7年間のある時点、またはその直前でキリスト者が天にあげられ、悪人と同じ目に遭うことがなくなるというものです。

ラプチャーという言葉自体は聖書にはありません。
携挙はしばしばキリストとの結婚にたとえられています。なぜでしょうか?
まず聖書に書かれている魂の仕組みについて考察してみます。


創世記でヒビびとシケムがヤコブの娘デナをはずかしめました。

Gen 34:3  彼は深くヤコブの娘デナを慕い、この娘を愛して、ねんごろに娘に語った。

とありますが、ここは原語では「魂がくっついた」と書かれているそうです。
結婚するときの「二人の者は一つとなり~」というのと同じです。

Gen 2:24  それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

Mat 19:6  彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。

これは肉体のことではなく魂のことを言ってるのですね。

結婚は肉的には子供を残すためぐらいに思われていますが、霊的には魂の一体化が起こっているということです。

コリント人への手紙Iの中ではこのように書かれています。

 

1Co 6:16  それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。

 

これは霊のからだについて書かれているのです。

なぜならそのすぐ後に、


1Co 6:17  しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。

 

と書かれていて、神は霊であるので、これが肉の話ではないことがわかります。
神が姦淫を禁止されるのは、次々と魂がくっついていくからです。

悪魔と姦淫してくっついた人は一時的には成功しても徐々に活力が奪われていきます。
また、自分はちょっと一回遊んだだけ、とか思っていても、相手次第では120体合体!!とかになってるわけですね。
悔い改めないとそのまま地獄へ直行……なのでしょうか!?

エゼキエル書にはこう書かれています。

Eze 18:4  …… 罪を犯した魂は必ず死ぬ。


ここは口語訳では「魂」が「死ぬ」となってますが他の訳ではよくわからない表現でごまかされています。

原語に忠実に訳されているとされるKJVDerby訳では
the soul that sinneth, it shall die.

となっており、魂が必ず死ぬとなっています。
この世に数多くある体は死んでも魂は生きていると言いはってる宗教は聖書的には間違いということですね。

これはまた創世記でサタンの言った伝統と格式のある使い古された嘘です。
サタンは聖書で神がやってはいけないと書いていることすべてを人にやらせようとします。

Gen 3:4  へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

        VS

Eze 18:20  罪を犯す魂は死ぬ。(二回目)……



さて、あなたは一体どちらを信じますか?



イエスキリストは自分はいのちであるとかパンであるとか泉であるとか言いました。
自分を食べなさいと言ってました。
人は罪によって神から離れたために、死ぬものと定められました。
つまり、魂を神とくっつけることによって、人の魂は永遠と一体となれるのです。


Joh 6:47  よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。
Joh 6:48  わたしは命のパンである。
Joh 6:49  あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。
Joh 6:50  しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。
Joh 6:51  わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。
Joh 6:52  そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。
Joh 6:53  イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
Joh 6:54  わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
Joh 6:55  わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
Joh 6:56  わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。
Joh 6:57  生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。
Joh 6:58  天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。


神は電源であり、人はスマホです。電源から離れたスマホはいずれ停止します。
また再びつながるなら、生きることができるのです。

またたとえるなら神は大地であり、人は木です。木というのは条件がよければ寿命は無限と言われてますね。
大地から抜き去られない限り、死ぬことはなくなるのです。
これが、先のたとえ話の意味です。
このたとえを理解できなかったユダヤ人たちは、つまずいてしまいました。

 


神は完全な方であり、罪と一体となることはありえません。
エデンからアダム(人:地のちりすなわちアダマーから作られたのでアダムが追い出されたのはこのためでした。神はアダムに言われました。

 

Gen 3:19  あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。


またサタンもまたエネルギー源である天の神から離れ去り、地のちり(アダマー)を食べないといけなくなりました。
つまりサタンは文字通り人の魂を食べるのです。
悪魔が人と契約して代償に魂を奪うというのはネタではないのです。

 

ちなみに、詩編78編では、出エジプト記でユダヤ人たちが食べた天使のパン=マナのことをうたってますが、天使もパンを食べてるんですね。

詩編78編
Psa 78:23 しかし神は上なる大空に命じて天の戸を開き、
Psa 78:24 彼らの上にマナを降らせて食べさせ、天の穀物を彼らに与えられた。
Psa 78:25 人は天使のパンを食べた。神は彼らに食物をおくって飽き足らせられた。

 


サタンが執拗に人を罪へと誘惑する理由の一つはここにあります。おそらく神に反逆した瞬間に天のパンの支給を止められたのでしょう。創世記でへびが人を欺いたときに、神は原福音とよばれる宣告をへびに対して行いました(創世記3:15 女の子孫がサタンを倒すという預言)。もしサタンがこれを阻止したければ、即座に女を殺せばよかったわけですが、そうしませんでした。神が豊かな収穫を求めて人に「地に満ちよ。」と言われたのと同様にサタンも食べるために人を増やさなければならなくなっていたと考えられます。
さらにいうと彼らは罪を犯さない人を神の許可なく害する権限は与えられていないようです。人を誘惑して罪を犯した者だけを食べちゃってたわけですね。サタンが天の御使いに勝てないのもこのせいでしょう。
天の御使いは天の神からの無限のエネルギーを使って戦えますが、サタンの使える力は有限(人の魂から奪ったエネルギー)なのです。


いつも通り話が逸れましたが、人は罪を犯して神から切り離され、罪の対価である死を支払わなければならなくなりました。しかし、イエス・キリストが罪なくしてその死という対価を支払い、神と人との仲保者となってくださいました。
三位一体の子なる神であるイエスキリストとの結婚により父なる神と魂が繋がることで、人は死から解放され、永遠へと至るのです。

図にするとこんな感じですね。

     ┏━━人

神━キリスト━━━人
    ┗━━人

 

ん?この図、何かに似ていますね。そう、メノラーです。

ユダヤ教の象徴ですね。

 

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さて、携挙はいつ起きるのでしょうか?
聖書を研究する人たちには携挙は起きないという人もいれば、それは7年の艱難の前であるという人もいるし、それは艱難中期であるという人もいます。また別の人は再臨の時に携挙が起きるといってます。
携挙を根拠となっているいくつかの聖句を並べてみましょう。


第一テサロニケ4
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。



マタイ22章1~14節に結婚式のたとえがあります。

Mat 22:1  イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、
Mat 22:2  「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。
Mat 22:3  王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。
Mat 22:4  そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。
Mat 22:5  しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、
Mat 22:6  またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。
Mat 22:7  そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
Mat 22:8  それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。
Mat 22:9  だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。
Mat 22:10  そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。
Mat 22:11  王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、
Mat 22:12  彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。
Mat 22:13  そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
Mat 22:14  招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。


この王は父なる神であり、王子は主イエス・キリスト、招かれていた人たちはユダヤ人でしたが預言者たちを殺して招きに応じませんでした。
大通りで出会った人は誰でも婚宴に連れてきなさいとはすべての異邦人へ福音が伝えられることを示しています。
福音を聞いた人がもしこの招きに応じて礼服(白い衣)を整えるなら、地上のかつてない暗闇の日に婚宴に参加し、外に放り出されることはないのです。


こちらもそれっぽい聖句です。
Isa 57:1  正しい者が滅びても、心にとめる人がなく、神を敬う人々が取り去られても、悟る者はない。正しい者は災の前に取り去られて、
Isa 57:2  平安に入るからである。すべて正直に歩む者は、その床に休むことができる。



黙示録4章には教会時代(黙示録2~3章)の直後に4章1節の「その後」とあり「ここに上ってきなさい。」という言葉が続いています。
これを艱難の前の教会時代の終わりに携挙があるという根拠とみなすことができます。

Rev 4:1  その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。


ちなみに、黙示録11:12でも同じように天からの「ここに上ってきなさい」の声で大艱難時代に活躍する二人の預言者が雲に乗って天に上げられます。(第一テサロニケ4章の説明と同じですね)

Rev 11:12 その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを、彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。



それから、ユダヤ教の結婚式の伝統では新郎新婦が7日間、bridal chamber(結婚式場のベッドルーム)に隠されます。

Pattern is Prologue: The Rapture, Part 2: The Wedding Model - Chuck Missler - Koinonia House
http://www.khouse.org/articles/2003/449/

これと同様にキリストの花嫁(キリストを信じて衣を白くした人たち)は7年間の大艱難から隠されるのです。地の塩となっていたこれらの人達が取り去られることで地上の悪が加速していき、悪は自らを裁きます。

ちなみに結婚の宴会に招かれた客は7日間花婿の父の家に滞在するようです。


この教えは決して不健全なものではなく、これを心から信じる人たちはキリストの花嫁となるため、あるいは大患難を免れるために自ら進んで悪から離れ、身を聖くするよう努めるようになります。これは必ずなります。
物欲、性欲、名誉欲、怒り、ねたみ、憎しみ、恐怖、あらゆる肉の思いがどんどん消えて、喜びと平安とが増していくのを体験します。
聖霊が働いてくださるのでしょう。
大患難はヤコブの悩みのときであり、その目的は地上の悪を裁くだけでなく、キリストを受け入れなかった神の民、ユダヤ人たちへの救いのためであり、艱難の前に衣を白くしたキリスト者には本来不必要な7年間なのです。
新約聖書の中でイエス様や使徒たちが再三悪を離れて善を行い、いつも神に祈りをささげ、魂を聖くして白い衣を着なさいと勧めているのはこの恵みに与るためなのです。




もし、艱難前の携挙がないのであればマタイ24、25章の以下のようなたとえ話はされなかったでしょう。

Mat 24:40 そのとき、畑ふたりといると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
Mat 24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
Mat 24:42  だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
Mat 24:43  このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
Mat 24:44  だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
Mat 24:45  主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。
Mat 24:46  主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。
Mat 24:47  よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。
Mat 24:48  もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、
Mat 24:49  その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、
Mat 24:50  その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、
Mat 24:51  彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。


Mat 25:1  そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
Mat 25:2  その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
Mat 25:3  思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
Mat 25:4  しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
Mat 25:5  花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。
Mat 25:6  夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
Mat 25:7  そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
Mat 25:8  ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
Mat 25:9  すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
Mat 25:10  彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
Mat 25:11  そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
Mat 25:12  しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
Mat 25:13  だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。

油は聖霊によって注がれます。
油がなければ子羊の花嫁となることはできません。
だから「聖霊をけがす言葉は、赦されることはない」のです。

Mat 12:31  だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。




携挙の時はいなずまのように、盗賊のようにくることが書かれています。
おそらく、とり残された人たちにはそばにいた人がただ突然死んだようにしか見えないでしょう。

マタイ24
Mat 24:26  だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。
Mat 24:27  ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。
Mat 24:28  死体のあるところには、はげたかが集まるものである。

携挙に預かる人は肉の体(死体)を残して魂が天へと昇っていくようです。




↓対して艱難中軽挙説を唱える人たちは以下のような点をあげています。

終末の大患難時代と携挙について、ひな型(予型)となる事件が、AD70年のエルサレム陥落です。実のところ、
イエスは弟子たちにエルサレム崩壊の預言を告げる中で、終末の出来事にまで言及し、
上記の携挙の預言を述べているのだ(マタイ24章)。その中でイエスは次のように語っている。

マタイ24:
15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

エルサレムがローマ軍に包囲された時、エルサレムにいたクリスチャン(ユダヤ人原始キリスト教徒)たちは、この預言に従い、エルサレムを脱出してヨルダン川東岸の町ペラに逃げた。
このため、この後ローマ軍がエルサレムに突入して神殿と街を破壊し、ユダヤ人たちを殺戮した時、彼らだけは無事生き延びることができたのである。
これは、終末に地上を襲う大患難時代の前に、クリスチャンたちが地上を脱出して天に挙げられ、助かることの予型だとされる。

 


という主張がありますが、これはむしろ艱難時代のイスラエル人たちに向けた警告ではないかと思われます。
荒らす憎むべき者は7年間の艱難の真中に現れるためです。また、前回見たようにユダヤ人たちは山(ぺトラ)に逃げることが預言されています。
さらにこの場合先に取りあげたユダヤ教の結婚式の慣習などと一致しなくなります。

なので私としては携挙があるとすれば艱難期の始まる直前であるという結論が自然な回答だろうと思います。
終わりの日は間近に迫っていると思われます。取り残されて艱難を通ることのないように、日々祈りながら正しく生きましょう。


Rev 19:7 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
Rev 19:8 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
Rev 19:9 それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」。



おわり。